朝刊連載小説・辻原登「陥穽 陸奥宗光の青春」(小杉小二郎 画)のバックナンバーをお読みいただけます。
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門を潜った。庭は思ったより広い。白や黄や紅の大小の花を夥(おびただ)しく付けたノイバラが一面に繁って、匂い立っている。棘のある蔓は、板壁添いに二階の屋根まで駆け上がっていた。…続き
町飛脚は、小次郎が江戸に出て最も長続きした日雇仕事である。町飛脚の配達区域は、日本橋葺屋町の近江屋本店からの距離によって大まかに三つに分けられ、それぞれ料金が違った。例えば、…続き
安井息軒はペリー来航に際して、攘夷封港(じょういほうこう)を主張して、「海防私議(かいぼうしぎ)」「靖海問答(せいかいもんどう)」などを上書(じょうしょ)して、国防を論じたが、時勢の渦中に…続き
江戸は、当時人口百万人近くを抱える世界最大の都市だった。ロンドンやパリですら五十万人前後で、識字率は四十パーセントを越えていた。
江戸の街に解き放たれた小次郎は、大都会の細民となって、…続き
彼が江戸に入った安政五年(一八五八)には、日米修好通商条約の調印を巡る「八十八卿の列参奏上」事件と「戊午(ぼご)の密勅(みっちょく)」事件が起こり、井伊直弼が大老に就任して、…続き
伊達宗広を乗せた駕籠が、熊野街道、岩代の浜辺を行く。九年前、彼は唐丸駕籠(とうまるかご)に押し込められてこの道を南へ下った。今は田辺藩差し回しの武家駕籠で同じ道を北へと上る。…続き
幕府の最高指導者である大老の横死は、公儀の威光を著しく損なうもの、かつ武士の不面目と見做されて、お家取潰しの理由とするのが通例であったことから、幕府は井伊の死の公表を引き延ばし、…続き
安政七年(一八六〇)三月三日は「上巳(じょうし)の節句」(桃の節句)で、諸大名はこぞって祝いの登城(とじょう)をする。この日は明け方から雪催(もよ)いの空で、そのうち小雪が舞い始め、…続き
松陰は、その日まで処分は重くても遠島(えんとう)と考えていた。しかし、十月十六日に呼出され、口書(こうしょ)に書判(かきはん)する時になって、自分が供述しなかった事実が記され、…続き
老中間部(まなべ)詮勝(あきかつ)要撃を企てた吉田松陰は、藩に武器弾薬の借用を願い出るが、藩は無論、門弟の高杉晋作らまでが無謀と反対して、目論見は実行に移されなかった。…続き
安政五年(一八五八)十月二十五日、十三歳の徳川家茂(いえもち)が十四代将軍に就任する。かつて紀州藩江戸付家老水野忠央(ただなか)、同じく江戸家老安藤直裕(なおひろ)が中心となって、…続き
天明の大飢饉から四十数年後、長雨・洪水・冷害によって起きた天保(てんぽう)の大飢饉(一八三三―一八三六)の際も、一揆・打ちこわしが全国各地に発生し、その対応をめぐって、幕藩体制の弱体化が…続き
「戊午の密勅」が水戸藩に下ったのが八月八日、その二日後、孝明天皇はより抑制した形で、条約の締結を不満とする勅諚を幕府に下した。それは公武合体・攘夷実行には触れず、幕政改革を促すものだったが、…続き
孝明天皇は、日米修好通商条約の勅許を拒絶した。堀田正睦(まさよし)は上京の目的を達せないまま、江戸に帰らざるを得なかった。しかし、幕府が、天皇から条約調印の許可を得ようとしたこと自体、…続き
安政五年(一八五八)一月、幕府は日米修好通商条約の勅許を朝廷に請うため、老中首座堀田正睦(まさよし)(佐倉藩主)自らが京都へ向かった。
条約には、江戸に駐在代表を置くこと、…続き